「伏見を歩けば幕末維新の史跡に当たる」と言っても過言でないほど、京都・伏見には当時の史跡が存在しています。
ちらほら遠隔地に点在しているものの、観光スポットはおおむね一つのエリアに集中しているので半日あれば徒歩で十分に廻れるんですよ。
本記事では、京都・伏見の幕末の史跡を巡るモデルコースと昼食スポットをご紹介します。
幕末の伏見を体感しに、みなさんも歴史散歩をしてみませんか?
京都・伏見の幕末の史跡を巡るモデルコース
おおよそ6時間ほどかけて、徒歩のみで踏破したコースは以下の順です。
少し足の調子も良くなかったので、みなさんならもう少し早く廻れるのではないでしょうか。
途中、地元で大人気の洋食屋さんで昼食をとりましたので、「美味しい情報」も併せて紹介しますね。
- ①御香宮神社
- ②伏見奉行所跡
- ③会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
- ④【昼食】洋食屋コートレット
- ⑤伏見口の戦い激戦地跡
- ⑥伏見長州藩邸跡
- ⑦「龍馬とお龍、愛の旅路」像
- ⑧寺田屋
- ⑨大黒寺
①御香宮神社
慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いの際に薩摩藩を中心とする官軍が陣を張った御香宮神社からスタートです。
相対する幕府軍が150mほど南にある伏見奉行所に陣を張りますが、御香宮からの官軍の激しい砲撃を受けた奉行所は焼け落ちてしまいました。
以降、幕府軍は伏見から撤退することになり、幸い御香宮神社も戦火を免れます。
境内には「明治維新 伏見の戦碑」や、もとは伏見奉行所の庭園に置かれていて鳥羽・伏見の戦禍で焼かれ変色した手水鉢を有料の庭園で見ることができますよ。
②伏見奉行所跡
伏見奉行所は徳川幕府がおいた遠国奉行のひとつで、伏見市街をはじめ周辺の8ヵ村を管轄していました。
慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いの際には新選組や会津藩を中心とした幕府軍が布陣し、御香宮の官軍と対峙します。
しかし官軍の近代兵器による激しい攻撃を受けて伏見奉行所は炎上し、幕府軍は退却せざるを得ませんでした。
現在、跡地は市営住宅・桃陵(とうりょう)団地となっていて、団地の入口に石碑が立っています。
③会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
伏見御堂は、桃山時代の慶長年間に東本願寺第12代法主・教如が創建したお寺で、現在は「伏見別院」と呼ばれています。
鳥羽・伏見の戦いが始まる前日、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸し、伏見御堂を宿陣としました。
戦闘が始まり、銃撃戦の際には本堂の畳を盾にしたともいわれていて、激戦であったことが伺われます。
今回は立ち寄れませんでしたが、伏見御堂から南に少し歩いた所(月桂冠情報センター駐車場脇)には伏見土佐藩邸跡の碑も立っています。
④【昼食】洋食屋コートレット
フランスのレストランで修行後に東京や神戸の有名ホテルなどで活躍されたシェフが営む、伏見で大人気の行列の絶えない洋食屋さんです。
筆者が到着したのが11:40頃でしたが、この時点ですでにほぼ満席。
一人であることを伝えたら、辛うじて空いていた壁際のカウンター席を案内していただけました。
洋食屋コートレットの看板メニューは、ハンバーグ・海老フライ・カニクリームコロッケ・ヒレカツがワンプレートでいただける「大人のお子様ランチ」。
もちろん最初は私も「大人のお子様ランチ」をお願いするつもりで入店したのですが、メニューを見れば見るほど目移りしてしまい……。
海老フライ3尾+カニクリームコロッケの「カニエビ」の定食セットをオーダーしました。
カニクリームコロッケは濃厚なカニの風味にビックリ。
有頭の海老フライは淡白な海老にサクサクの衣がタルタルソースとよく合いました。
リーズナブルに本格的な洋食が味わえるお店です!
⑤伏見口の戦い激戦地跡
石碑の立つ「京橋」は伏見城の外堀として作られた濠川(ほりかわ)にかかる橋のひとつです。
江戸時代の伏見は京・大坂間の河川水運の重要な中継地として栄えましたが、特に京橋界隈が最も賑わっていたといいます。
伏見御堂に宿陣した会津藩の先鋒隊が船で大坂から上陸したのも、京橋付近からでした。
やがて、伏見奉行所が炎上して退却を余儀なくされた幕府軍でしたが、京橋付近の民家に火を放ちながら淀方面に退却していったといいます。
幕府軍の退却時には多くの民家が焼かれ、一帯は甚大な被害を受けたそうです。
⑥伏見長州藩邸跡
江戸時代、京都市中や伏見には多くの゙藩が藩邸を構えましたが、水運の要衝だった伏見京橋に藩邸を置いていたのは薩摩藩とともに倒幕運動の中心となった長州藩です。
しかし鳥羽・伏見の戦いの4年前、当時の長州藩は孤立していました。
当時尊王攘夷急進派だった長州藩は、京都を守る薩摩・会津を中心とした公武合体派の軍と軍事衝突を起こします。
元治元(1864)年7月19日に勃発した蛤御門の変(禁門の変)です。
家老の福原越後率いる長州藩の主力軍は当地から御所へ向けて進軍しますが、御所での激戦の末に撤退を余儀なくされました。
最後は、彦根藩などの連合軍による砲撃を受けて長州藩邸は焼失したといわれています。
京都と伏見とを結ぶ竹田街道沿いに位置していて、現在の京都市建設局伏見土木事務所の入口付近に石碑が立っています。
⑦「龍馬とお龍、愛の旅路」像
濠川(ほりかわ)にかかる京橋南詰に広がる伏見みなと公園内に建つ銅像で、建立されたのは平成23(2011)年9月と比較的最近です。
薩長同盟を締結させた直後の慶応2(1866)年、坂本龍馬は寺田屋に宿泊していましたが、伏見奉行所配下の捕り方に囲まれてしまいます。
しかし龍馬はお龍の機転によって難を逃れ、しばらく伏見薩摩藩邸に匿われました。
1ヶ月あまり後に西郷隆盛の勧めもあって、襲撃された時に負った右手の傷を癒やすために寺田屋浜から三十石舟に乗って龍馬とお龍は九州へ旅立ちます。
この坂本龍馬とお龍との九州旅行が「日本で初めての新婚旅行」だと言われているんですよ。
⑧寺田屋
幕末の伏見といえば寺田屋を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?
薩摩藩士の同士討ち「寺田屋騒動」の現場であり、坂本龍馬の定宿で襲撃された現場ともなった舟宿です(襲撃された龍馬が寺田屋から脱出し、追手から身を隠した材木小屋跡の碑が大手橋西詰にあります)。
京橋からもほど近く、鳥羽・伏見の戦いの際に焼失していて、現在の建物はその後に再建されたものです。
以前は宿泊することも可能でしたが、現在は停止しておられるとのこと。
大人600円で見学することは可能です。
オフシーズンは月曜日にお休みされることが多いようですので、月曜日は避けてお出かけになるのが良いかと思います。
⑨大黒寺
真言宗の寺院で、元和元(1615)年に時の薩摩藩主・島津義弘の命によって薩摩藩の祈祷所となりました。
元は「長福寺」という名前でしたが、島津義弘の守り本尊が出世大黒天であることにちなんで「大黒寺」と改められました。
通称は「薩摩寺」。
西郷隆盛や大久保利通が密談をしたとされる部屋や、寺田屋騒動の9人の犠牲者の墓碑があり、墓碑銘を書いたのは西郷隆盛であると伝えられています。
今回は行けませんでしたが、大黒寺から北東に少し歩いたところに伏見薩摩藩邸の碑も立っていますよ。
まとめ
こうして振り返ると、伏見エリアの幕末史跡の多さとコンパクトさに改めて驚かされます。
自分の足で歩くことで一つひとつの史実と史跡とが繋がって、より幕末という時代がリアルに感じられました。
本記事では、京都・伏見の8つの幕末の史跡を巡るモデルコースを昼食スポットも交えてご紹介しました。
ぜひみなさんも、幕末が身近に感じられる伏見に足を運んでみてくださいね!
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