京都で新撰組ゆかりの地巡り!聖地巡礼のおすすめモデルコースを紹介

 

新撰組を題材にした小説やドラマに触れて、胸を熱くした方は多くいるでしょう。

幕末の京都で活躍した新撰組の史跡は、今も残っています。

本記事では、京都で新撰組ゆかりの地を巡る、聖地巡礼のおすすめモデルコースを紹介します。

新撰組が結成されて160年、隊士たちが駆け抜けた京都を巡ってみませんか?

 

京都の新撰組ゆかりの地を巡る聖地巡礼モデルコース

幕末小説好きな筆者がおすすめしたい、京都の新撰組ゆかりの地を巡る、聖地巡礼モデルコースを紹介します。

  • ①光縁寺
  • ②旧前川邸
  • ③八木邸
  • ④壬生寺
  • ⑤角屋
  • ⑥輪違屋
  • ⑦島原大門
  • ⑧西本願寺
  • ⑨八坂神社
  • ⑩池田屋跡地
  • ⑪三条大橋

 

①光縁寺

スタートは、門前に「新撰組の墓」という石碑が立つ光縁寺です。

光縁寺には、新撰組総長の山南敬助と隊士たちが埋葬されています。

山南敬助は仙台藩出身の北辰一刀流の使い手で、学も人望もありました。

しかし、首脳陣との確執から脱走をはかり、隊規違反で切腹したそうです。

寺の門前付近に新撰組の馬小屋があったこと、山門の瓦に山南家と同じ家紋があることから、住職と山南の交流が始まったといわれています。

「新選組のお墓 お墓参りの方お入りください」との案内書きがあり、境内に入ることが可能です。

幕末に思いをはせながら、新撰組隊士たちのお墓参りができます。

参考:京都観光Navi

 

②旧前川邸

新撰組の最初の屯所となったのが、旧・壬生村の旧前川邸です。

旧前川邸には、下記のような新撰組関係の史跡が残っています。

  • 光縁寺に墓のある山南敬助が切腹した座敷
  • 野口健司が切腹した出格子窓の部屋
  • 勤王の志士古高俊太郎が池田屋事件の前に拷問を受けた土蔵

現在、旧前川邸の一般公開はされていませんが、土日祝日に玄関(隊士が行き来した当時の勝手口)で、新撰組に関するグッズが販売されています。

内部は非公開ですが、ほぼ当時のままに残る建物を眺めるだけでも、隊士たちの生活が偲ばれます。

参考:旧前川邸

 

③八木邸

「新撰組遺蹟」の石碑が立つ八木邸も、旧前川邸とともに屯所として使われました。

一般公開されており、新撰組隊士たちが暮らした場所を目の当たりにできる貴重な場所です。

芹沢鴨は八木邸の奥の間で、土方歳三・沖田総司たちに暗殺されました。

芹沢襲撃時にできたと伝わる刀傷が今も残っています。

見学には、HPから申し込みが必要です。

ガイドによる解説つきで主屋の見学ができ、お抹茶と屯所餅がいただけますよ。

参考:壬生屯所旧跡八木家

 

④壬生寺

壬生寺は、新撰組隊士たちの訓練場として使われました。

大砲訓練までしていたため、壬生寺は朝廷に訓練をやめさせるよう嘆願書を出したそうです。

沖田総司が境内で子供たちを集めて遊んだ、近藤勇や隊士たちが壬生狂言を観賞した、相撲興行を企画したなどの逸話が多く残っています。

境内にある壬生塚は、暗殺された芹沢鴨や平山五郎など11人の隊士が祀られている場所です。

また、近藤勇の遺髪塔や近藤勇・土方歳三の胸像もあります。

阿弥陀堂内にある売店では、新撰組のオリジナルグッズが売られています。

例年7月16日には、「新選組隊土等慰霊供養祭」が執り行われ、全国からたくさんの参詣があるそうです。

新撰組ファンでにぎわう壬生寺に行ってみてくださいね。

参考:壬生寺

 

⑤角屋

角屋は、旧花街・島原で営業していた揚屋(現在の料亭)で、新撰組隊士たちも通っていた場所です。

芹沢鴨との関わりが特に深く、入り口付近には芹沢が暴挙を働いた際にできた刀傷が残っています。

暗殺される前に芹沢鴨が大宴会を開いていたのも角屋です。

勤王の志士たちの話し合いの場としても使われた角屋は、志士たちと新撰組の来場が重なることもあったとか。

年に2回の開館期間に合わせて、隊士たちが訪れた豪華絢爛な建物を訪れてくださいね。

参考:公益財団法人角屋保存会

 

⑥輪違屋

輪違屋は、新撰組隊士なじみの太夫や芸妓を抱えていた置屋です。

伊東甲子太郎は輪違屋の花香太夫をなじみにしていたそうです。

八木邸での芹沢鴨暗殺時、平間重助は輪違屋の糸里とともに別室にいました。

輪違屋の1階には、近藤勇直筆の書を屏風に仕立てた「近藤勇墨跡屏風」があります。

現在も唯一太夫を抱える置屋兼お茶屋として営業している輪違屋は、観覧謝絶という札を掲げる一見さんお断りの店です。

内部は非公開ですが、特別公開される時がありますので、チェックしてみてくださいね。

参考:おにわさん

 

⑦島原大門

島原の入り口である島原大門は、慶応3(1867)年に立て替えられた威風堂々とした高麗門です。

島原は遊郭ではなく、老若男女の出入りが自由な誰もが楽しめる花街です。

市中の治安を守る新撰組は、取り締まりのために島原を訪れていました。

新撰組の屯所からも近く、隊士たちは島原大門をくぐって通っていたのでしょう。

島原には、隊士たちと親しい女性たちもいました。

山南敬助が切腹の直前に、八木邸の格子越しに別れを惜しんだのは島原の天神明里です。

土方歳三の手紙には、島原の花君太夫や天神一元の名前が記されています。

また、島原の芸妓小常は見請され、永倉新八の妻となったそうです。

大門の立派な佇まいに、隊士たちが闊歩した往時の島原を感じられますよ。

参考:京都観光Navi

 

⑧西本願寺

西本願寺は、新撰組の2回目の屯所があった場所です。

池田屋事件の功績によって幕府からの信頼を得た新撰組は、隊士の人数も増えたため西本願寺に移ります。

西本願寺には、長州藩の志士たちがよく出入りしていたので、彼らを牽制することも目的でした。

新撰組は境内の太鼓楼と北集会所を使用していましたが、太鼓楼のみが現存しています。

太鼓楼には、新撰組による刀傷が今も残っているそうです。

参考:お西さん(西本願寺)

 

⑨八坂神社

八坂神社の西楼門の石段を降りたところは、谷三十郎が謎の死を遂げた場所です。

新撰組は会津藩に「七番組頭谷三十郎儀、祇園石段下に於て頓死相遂げ候」と報告しています。

新撰組の小説やドラマで、決まって悪役として書かれる谷三十郎は、あまり評判のよくない人物だったようです。

斎藤一による暗殺説、過度の飲酒による脳卒中説などがありますが、真相はやぶの中です。

また、八坂神社の石段下は人斬り鍬次郎と呼ばれた大石鍬次郎の実弟が、今井祐次郎に斬殺された場所でもあります。

暗殺や粛清、戦闘などの陰惨な話が多い隊士たちを見ていた八坂神社を、訪れてみてくださいね。

参考:八坂神社

 

⑩池田屋跡地

池田屋跡地は、新撰組の名を知らしめた池田屋騒動の舞台となった宿があった場所です。

当時の建物は残っておらず、「池田屋騒動之址」と刻まれた石標が立っています。

当時長州藩の定宿だった池田屋で長州・土州・肥後など諸藩の討幕派が謀議中に、新撰組に急襲されました。

乱闘の末、多数の死傷者を出した池田屋騒動をきっかけに、討幕の気運が高まるのです。

長州藩は池田屋騒動後に挙兵して上洛し、禁門の変へと発展します。

池田屋は既にありませんが、新撰組ファンにとっては訪れる価値のある場所でしょう。

参考:NA033 池田屋騒動址 – 京都市

 

⑪三条大橋

三条大橋には、池田屋騒動の切り合いでついたといわれる刀傷が残っています。

また、三条大橋の下は新撰組局長の近藤勇の首が晒された場所です。

三条大橋の北側・南側ともに西から数えて2つ目の擬宝珠に、細い刀傷がついています。

志士たちと新撰組隊士たちは、池田屋から外に出て激しく戦ったのです。

池田屋から三条大橋までは150mの距離があるので、騒動の大きさがわかります。

池田屋騒動のわずか4年後に、江戸で斬首された近藤勇の首が江戸から京都に運ばれて、三条河原で晒されます。

新撰組の栄枯盛衰を見てきた三条大橋で、幕末の歴史を感じてみてくださいね。

参考:大阪・関西の謎と不思議を解く 著者若一光司

 

まとめ

新撰組は、歴史ファンに根強い人気を誇ります。

幕末の京都の治安を守った新撰組の足跡は、今も京都に数多く残っています。

本記事では、京都で新撰組ゆかりの地を巡る、聖地巡礼のおすすめモデルコースを紹介しました。

新撰組隊士たちが躍動した京都の町をぜひ訪れてみてくださいね。

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